「ちょ、ちょっとどういうことよ! ルシアン様の婚約者だなんて……! そんな話、初耳よ!」ブリジットは興奮のあまり、立ち上がる。「ええ、そうですよね? 何しろつい最近、私とルシアン様の婚約が決まったばかりなのですから」そのとき――「あ、あの……お茶とお茶菓子をお持ちいたしました」メイドのアナがワゴンに2人分のとびきりのお茶と焼菓子を乗せて応接室に現れた。「まぁ、アナ。どうもありがとう」ニコニコしながら声をかけるイレーネ。「い、いえ。では失礼いたします」アナはいそいそと2人の側に行くと、紅茶と焼菓子をテーブルに乗せ……チラリとブリジットを見た。「何よ?」ジロリと睨むブリジット。「い、いえ。何でもありません! し、失礼致しました!」ペコリと頭を下げると、アナは逃げるように応接室を後にした。「まぁ……美味しそうなお茶にケーキですね。ブリジット様、一緒に頂きましょう」「……は?」唖然とするブリジットにイレーネは声をかけると、早速カップに口をつけると笑みを浮かべた。「……まぁ。香りも素敵だし、味も最高だわ」「ちょっと待ちなさい!! あなたねぇ……よ、よくもこんな状態でお茶なんか飲めるわね!」ブリジットは興奮のあまり、髪の毛同様頬を赤く染める。「ブリジット様、このお茶本当に美味しいですよ? 温かいうちに飲まれたほうがよろしいかと思います」しかし、イレーネはブリジットの興奮する様子に動じることもなくお茶を勧める。「……なら頂くわ」(そうね。お茶を飲んで少し冷静になりましょう)ブリジットはおとなしく座ると、早速紅茶を口にした。それはとてもフルーティーな香りで、飲みやすい紅茶だった。「……確かに美味しいわ」「ですよね? それなら焼き菓子も頂きましょう……まぁ! とっても美味しいわ! この紅茶と本当によく合います。ささ、ブリジット様もどうぞお召し上がりになってみて下さい」イレーネがあまりにも美味しそうに焼菓子を口にするので、ブリジットも食べてみようと思った。ただし、強気な態度は崩さずに。「ふ、ふん。食べ物なんかで私がつられるとでも思っているの? こう見えても私は色々な美味しいスイーツを食べ歩いているのだから」そしてフォークで焼き菓子を口に運び……。「! 美味しいじゃない……」「ですよね? お茶も焼き菓子も最高に美味しいです
「もう……帰るわ。お茶もお菓子もいただいたし」これ以上話をしても埒が明かないと判断したブリジットは立ち上がった。「まぁ、もうお帰りになるのですか? もしよろしければ、私の部屋に寄っていかれませんか?」「はぁ!? な、何で私があなたの部屋に行かなければいけないのよ!」キッとイレーネを睨みつける。「いえ、もしよろしければ私と友達になっていただければと思いましたので」「冗談じゃないわよ! どうして私があなたと友達になれるっていうのよ! ふざけないでちょうだい!」怒りを爆発させるブリジットに、イレーネはハッと気づく。(そうだったわ、私は1年間のお飾り妻。来年にはここを去っているのだから、お友達になってもらうのは図々しいお願い。第一、それではブリジット様に失礼だわ)「これは大変出過ぎたことを口にしてしまいました。どうぞ、今の話はお忘れ下さい。何しろこの町に出てきたばかりですので、親しい友人もおりませんでした。そこでつい同世代のブリジット様とお友達になりたく思い、図々しいお願いをしてしまいました。申し訳ございません」そして深々と頭を下げる。「え……? ちょ、ちょっと……」あまりにも突然態度が変わったことでブリジットは焦った。イレーネの心の内も知らずに。(もしかして、私……強く言いすぎてしまったかしら!?)「もし、今度何処かでお会いしても、もう二度と今の様な図々しい願い事はいたしません。大変申し訳ございませんでした」「な、何もそこまで謝らなくたっていいわよ! 別に気にしていないから!」気が強いブリジットではあるが、彼女はそれほど性悪な女性ではなかったのだ。「本当ですか!?」途端にイレーネの顔に笑みが浮かぶ。「そ、そうね……ど、どうしても友達になってもらいたいって言うなら……月に1度位は会ってあげてもいいわ。私だって、何もそこまで了見の狭い女じゃないし」「え? で、でも……よろしいのですか?」「だからいいって言ってるでしょう!? きょ、今日は部屋に寄ることは出来ないけど……気が向けば招待状位……送ってあげるわよ!」「ありがとうございます! ブリジット様!」イレーネは嬉しさのあまり、立ち上がるとブリジットの手を両手でギュッと握りしめた。「え!? きゃあ! な、何するのよ!」慌てて手を振り払うブリジット。「あ……申し訳ございません。
――3日後ルシアンとリカルドはマイスター家の帰路に着いていた。「それにしても、以外でしたね。現当主様がすんなりとルシアン様の婚約者の存在をお認めになるとは」馬車の中でリカルドが楽しげに話している。「結局、祖父は早く俺を結婚させたかっただけなんだよ。……現に、すぐに婚約者を連れてくるように言ったじゃないか。虚言だと疑っているのかもしれない」不貞腐れた様子で窓の外を眺めるルシアン。「う〜ん……そうでしょうか……イレーネさんの身上書もお持ちしたのに……写真もつければ信用して頂けたのでしょうか?」「だが写真は現像に時間がかかる。どうせ、遅かれ早かれ祖父に紹介しなければならないんだ。とりあえず、祖父はイレーネを認めたということだ。彼女にそのことを報告し、今度は2人で『ヴァルト』に行く」すると、その言葉にリカルドが目を輝かせる。「2人きりで『ヴァルト』に行くということですね? まるで婚前旅行みたいで素敵ですね〜最近は結婚前のカップルが2人だけで旅行をするというのが流行らしく……え? あ、あの〜……」ルシアンが恨めしい目つきで自分を睨んでいることに気づいたリカルドの言葉が尻すぼみになる。「リカルド……」ハァとため息をつくルシアン。「は、はい。何でしょうか?」「お前は一体何を考えているんだ? 俺と彼女はあくまで1年だけ夫婦を演じるとい契約を結んだだけの関係。それを何が婚前旅行だ。……全く、能天気だな。こちらはイレーネが祖父の前で何か失態をおかしたりしないか、今から不安でたまらないというのに……」「……そんなに心配でしたら、早々にイレーネさんにはお断りして次の方を探せばよろしかったのでは?」「……」恐る恐るリカルドは口にするも、ルシアンは無言を通す。(やはり……本当はイレーネさんのことを心の何処かで気に入られているのではないだろうか?)しかし、リカルドの考えとは裏腹にルシアンは別のことを考えていた。(彼女は貴族令嬢ながら、今まで散々貧しい生活に苦労してきた人生を歩んできた。1年間位、俺の妻として何不自由ない暮らしを与えてやりたい。何しろ、この結婚で俺は彼女の人生を狂わせてしまうことになるかもしれないのだから)勿論、リカルドはルシアンの心の内も知らず……勝手に妄想を広げていくのだった。****「お帰りなさいませ、ルシアン様」ルシアンが屋
その日の夕食の後――「本当に大したお方ですね、イレーネさんは」書斎に紅茶を淹れに来たリカルドがルシアンと話をしている。「何が大したお方だ。ブリジット嬢と友達になったと聞かされて俺がどれだけ驚いたと思っている。全く……これでは心臓がいくらあっても足りなくなりそうだ」しかめた顔で紅茶を飲むルシアン。「で、ですが……まさかイレーネさんが、ルシアン様だけでなくブリジット様まで懐柔してしまうとは……クックックッ……」リカルドは肩を震わせ、左手で顔を覆い隠している。「リカルド……お前、面白がっているだろう? 大体、懐柔とは何だ? 俺は別にイレーネに懐柔されてなどいないが?」「そう、そこですよ。ルシアン様」「何だ? そことは?」「イレーネさんのことをそのように呼ぶことですよ。今までどの令嬢全てにおいても敬称つきで呼ばれていたではありませんか? ……あの方を除いては」「……」その言葉に黙り込んでしまうルシアン。(しまった。少し余計なことまで口にしてしまったかもしれない)黙り込んでしまったルシアンを見て、リカルドは慌てたように話題を変えた。「そ、それにしても私たちがほんの3日留守にしていただけなのに、イレーネさんは既にこの屋敷で自分の地位を築き上げていたようですね。使用人たちが口を揃えて言っておりましたよ? イレーネ様はルシアン様の不在中、立派な女主人を務めておりましたと」「……まぁ、彼女はあんな細い身体なにのに、肝は据わっているからな」「ええ。ですからきっと現当主様はイレーネさんのことを気に入ると思いますよ」「だといいがな。だが、気に入られなくても構うものか。どうせ彼女は1年限りの契約妻なのだから」(そうだ、一刻も早くマイスター家当主に認めてもらうためにもイレーネを祖父に会わせなくては……)そして再びルシアンは紅茶を口にした――****――翌朝、朝食の席「え? 来週、ルシアン様のお祖父様に会いに行くのですか?」フォークを手にしていたイレーネが目を見開く。「ああ、そうなる。祖父に俺を次期当主に認めてもらうには結婚相手である君を引き合わせなくては話にならないからな。祖父は気難しい男だ。不安なこともあるかもしれないが……」「御安心下さい、ルシアン様。何も不安に思うことはありませんわ」「は? い、いや。俺が言ってるのは……」その言
翌日の朝食後――「イレーネ様、お出掛けにはこちらのドレスがよろしいかと思います」本日の専属メイドがウキウキしながらイレーネにドレスをあてがう。そのドレスは落ち着いた色合いのブラウンのデイ・ドレスだった。勿論、このドレスもイレーネが自らマダム・ヴィクトリアの店で購入したドレスであある。「あら、あなたもこのドレスが気に入ったの? ブラウンだったからどうかと思ったけれど……私たち、気があいそうね」ニコニコと笑みを浮かべるイレーネ。「ほ、本当ですか? イレーネ様!」メイド……リズは、美しく逞しいイレーネに密かに憧れていた。その相手から気が合いそうと言われ、喜んだのは言うまでもない。「ええ。年も見たところ私と変わりなさそうだし……名前を教えて頂けるかしら?」「はい、私の名前はリズと申します。私がこのドレスを選んだのには理由があります。何故ならこのドレスはルシアン様の髪色と同じ色だからです。初デートとなれば、やはりこのドレスしかありません!」きっぱりと言い切るリズ。「え……? デート?」デートと言う言葉に首を傾げるイレーネ。「はい、そうです。だって、初めてでは無いですか。お二人だけで外出なんて」(私とルシアン様は単に現当主様に会う為の準備を整える為に買い物に出掛けるのだけど……?)しかし、目の前でキラキラと目を輝かせているリズを前に本当のことを言う必要も無いだろうとイレーネは判断した。「そうね、確かに初めてのデートだもの。気合をいれないといけないわね。それではルシアン様をお待たせするわけにはいかないので、準備をするわ」「お手伝いさせて下さい!」こうして、イレーネはリズの手を借りながら外出準備を始めた――****「ルシアン様」ルシアンのネクタイをしめながら、リカルドが声をかけた。「何だ?」「本日の外出の目的はイレーネさんのドレスを買いに行くのですよね?」「そうだ、何故今更そんなことを尋ねる?」「いえ、少し確認したいことがありますので」「何だ? 確認したいこととは」鏡の前でネクタイを確認しながら返事をするルシアン。「ドレスを購入された後はどうされるおつもりですか?」「どうするって……そのまま、真っすぐ帰宅するつもりだが?」「何ですって? そのまま帰られるおつもりだったのですか? デートだと言うのにですか? 他に何処にもよ
「行ってらっしゃいませ、ルシアン様。イレーネ様」馬車の前に立つ2人にリカルドが笑顔で声をかける。彼の背後には20人近い使用人達も見送りに出ていた。「あ、ああ。行ってくる」物々しい見送りに戸惑いながらルシアンは返事をした。次に、隣に立つイレーネに視線を移す。「では、行こうか? イレーネ」「はい。ルシアン様」イレーネは笑顔で返事をすると、2人は馬車に乗り込んだ。「リカルド、外出している間留守を頼むぞ」ルシアンは窓から顔をのぞかせると、リカルドに声をかけた。「はい。お任せ下さい、ルシアン様」リカルドはニコリと笑みを浮かべ、次にルシアンに近づくと小声で囁く。「どうぞお仕事の方はお気になさらずに、ごゆっくりしてきて下さい。くれぐれも早くお帰りいただかなくて結構ですからね?」「あ、ああ……分かった。で、では行ってくる」まるで、早く帰ってきては許さないと言わんばかりのリカルド。その口調にたじろぎながらもルシアンは頷くのだった……。**「ルシアン様、ところで本日は何処へ行かれるのですか?」馬車が走り始めるとすぐにイレーネが声をかけてきた。「そうだな……とりあえず、町に出てブティックを数件周って服を購入しよう。祖父は身なりに煩い方だ。場をわきまえた服装でいなければネチネチと嫌味を言ってくるかもしれないからな。余分に買い揃えておけば間違いないだろう」少々大袈裟な言い方をするルシアン。(本当は、そこまで口煩い祖父では無いのだがな……イレーネにドレスを買わせるには大袈裟に言った方が良いだろう。そうでなければ彼女のことだ。きっと遠慮するに違いないからな)すると、案の定イレーネはルシアンの言葉を真に受けた。「この間10着以上もドレスを購入したばかりです。なので新たに購入するのは何だか勿体ない気も致しますが……当主様が服装に細かい方でしたら致し方ないかもしれませんね。何しろ私の役割はルシアン様が次の当主となれるようにお飾り妻を演じきることなのですから」「あ、ああ……ま、まぁそういうことになるな」きっぱりと「お飾り妻」と言い切るイレーネに苦笑しながらもルシアンは頷く。「よし、それではまず最初は前回君が訪れた『マダム・ヴィクトリア』の店に行くことにしよう」「はい、ルシアン様」――4時間後ガラガラと走る馬車の中で、イレーネとルシアンは会話していた
「そういえば買い物に気を取られていてお昼のことを忘れていたな。もう14時を回っている」ルシアンは腕時計を見た。「まぁ、14時を過ぎていたのですね? 買い物が楽しくて、すっかり時間を忘れていましたわ」「そうか? そんなに楽しかったのか?」イレーネの言葉にまんざらでもなさそうにルシアンが頷く。「はい、『コルト』に住んでいた頃は洋品店の窓から店内を覗くだけでしたから。実際に買い物をすることなど滅多にありませんでしたので」「あ、ああ……何だ。そっちのほうか……」落胆した声でボソリとつぶやくルシアン。「え? 今何かおっしゃいましたか?」「いや、何でもない。それでは少し遅くなってしまったが、何処かで食事でもしていかないか? この通りには様々な店が立ち並んでいるからな」「はい、そうですね」そこで2人は馬車から降りると、通りを歩いてみることにした――**「ルシアン様、このお店はいかがですか? なかなかの盛況ぶりですよ?」イレーネが駅前の噴水広場の正面にある店の前で足を止めた。「……あ。この店は……」ルシアンは店をじっと見つめる。「どうかしましたか? このお店のこと御存知なのですか?」「ああ……知っている。ここは開業してまだ5年目程の料理屋なのだが、元王宮料理人が開いた店で貴族達の間で人気の店なんだ」「まぁ。そんなに有名なお店だったのですか」「そうだ。……以前は俺も良くこの店に通っていたのだが……」そこでルシアンは言葉を切る。「どうかされましたか? ルシアン様」「い、いや。何でもない」首を振るルシアン。(そうだ、あれからもう4年も経過しているんだ。……多分大丈夫だろう)ルシアンは頭の中を整理すると、再びイレーネに声をかけた。「それでは……この店にしてみるか?」「はい、そうしましょう」笑顔で答えるイレーネ。そこで店の中へ入ると、すぐに笑顔のウェイターが現れて2人を窓際のボックス席へ案内をした。「イレーネ、どれでも遠慮せずに好きな料理を頼むといい」メニューをじっと見つめているイレーネにルシアンは声をかけた。「ありがとうございます。まあ……どれも美味しそう」(随分楽しそうだな……)楽しそうにメニューを選んでいるイレーネを見ていると、ルシアンはまるでこれが本当のデートのように思えてきた。「う〜ん……これだけ沢山のお料理
――17時「ええっ!? そ、そんなことがあったのですか!?」書斎にリカルドの声が響き渡る。「ああ……そうなんだ。全くいやになってしまう……あのウェイターのせいで最悪だ……。まさかイレーネの前でベアトリーチェの名前を口にするとは思わなかった」すっかり疲れ切った様子のルシアンが書斎机に向かって頭を抱えてため息をつく。「そ、それでイレーネさんの様子はどうでしたか?」リカルドが話の続きを促す。「……別に」「は? 別にとは?」「全く気にした様子は無かった」「そうなのですか!?」「ああ、それどころか微塵も興味が無い様子だった。このお店はお昼を過ぎているのに盛況ですねとか、祖父の話とか……世間話ばかりだった」「なるほど、それなら良かったではありませんか」笑顔になるリカルド。だが、やはりルシアンは良い気分では無い。(ベアトリーチェのことを気にしないのは助かったが……それはそれで面白くない。イレーネは俺個人に全く興味が無いということなのか?)そんなことを考えながらルシアンは面白くなさそうに自分の考えを口にした。「……だが、もうあの店には当分行かない。接待でも利用するのはやめよう。……気まずくて仕方がないからな」「はい、了解いたしました」「あと、厨房に伝えてくれ。昼食を食べた時間が遅かったので、イレーネの今夜の食事はいらないと」「そうなのですか?」ルシアンがその言葉に目を見開く。「ああ。イレーネ本人がそう話していたのだ。……彼女は随分少食だな。あんなに痩せているのだから、もっと食事をするべきなのに……」ため息をつくルシアンを見てリカルドは思った。(ルシアン様はイレーネさんのことが随分気がかりのようだ)と――****――21時イレーネが部屋で洋裁をしていると、不意に扉のノック音が響き渡った。「はい、どちらさまですか?」扉を開けると、ワゴンを押したリカルドが立っていた。「まぁ、リカルド様ではありませんか」「イレーネさん、お夜食を運んでまいりました。よろしければいかがですか?」「お夜食ですか?」「はい、ルシアン様が念のため用意するように仰ったのです」ワゴンの上にはティーセットにサンドイッチが乗っている。「そうですね。では折角なのでいただきます」「では失礼いたします」ルシアンはワゴンを押しながら部屋に入ると、テーブル
ルシアンはイレーネがケヴィンと供に会場を去ったことを知らぬまま、大勢の人々からもみくちゃにされていた。しかも運の悪いことに、新聞記者達も数多く集まっていたのだ。「ベアトリスさん! こちらの方が恋人なのですか!?」「お相手は以前から噂のあったカイン氏ではなかったのでしょうか!?」「お二人は遠距離恋愛中だったということですね?」記者達の不躾な質問にルシアンは反論した。「はぁ!? さっきから君たちは一体何を言ってるんだ! 俺と彼女は……!」すると、場馴れしたベアトリスが笑顔でルシアンの口元を押さえた。それだけで記者たちは歓声を上げる。「皆様、どうか落ち着いて下さい。彼はルシアン・マイスター伯爵。一般人ですので、この様な取材には慣れていないのですから」「ベアトリス! 君は一体……!」なおも反論しようとすると、ベアトリスは一歩前に進み出てきた。「私からご説明致します。私と彼は恋人同士でした。ですが2年前に理由あって離れ離れになってしまいました。ですが、私はずっと彼を忘れたことはありませんでした。私は彼に対する想いを舞台で歌い、演じてきたのです。今回『デリア』でオペラを上演することになり、こうして彼に再会出来たのも運命だと思っております!」世界の歌姫として名を馳せるベアトリスの声は会場内に良く響き渡った。当然、ルシアンが今回挨拶を交わす予定だった取引先の社長達の耳にも。もはや、ルシアンは顔面蒼白になっていた。(な、何てことをしてくれたんだ……! もうこれ以上……我慢できない!)「来るんだ! ベアトリス!」ルシアンはベアトリスの腕を掴むと、強引に人混みをかき分けて逃げ出した。「通してくれ! そこをどいてくれ!」「ちょ、ちょっと! ルシアンッ!?」「あ! 逃げないで下さい!」「まだ聞きたいことが沢山あるんですよ!」ルシアンはベアトリスを連れて追ってくる記者たちを必死にまくと、レセプション会場の中庭まで逃げてきた。「はぁ……はぁ……こ、ここまで逃げてくればいいだろう……」息を切らせながらルシアンは会場を振り返った。「アハハハハハハ……ッ。懐かしいわね。私達、良くこうしてゴシップ記者から逃げ惑っていたのを思い出さない?」ベアトリスは面白そうに笑う。「笑い事じゃない、それに生憎俺は思い出話に浸る予定なんかないんでね。一体どういうつ
「凄い騒ぎですね……あれ? あの女性……歌姫のベアトリス令嬢だ。隣に立っている男性はどなたでしょうね?」ケヴィンは騒ぎの方を見つめながら首を傾げる。「ルシアン……様……?」イレーネは今の状況が理解出来ずに呆然と立ち尽くしていた。「イレーネさん? どうかしたのですか?」ケヴィンがイレーネの様子がおかしいことに気付き、心配そうに声をかけてきた。「い、いえ……まさかベアトリス様がいらっしゃることに驚いているだけです」そう、本当にイレーネは驚いていたのだ。「ええ、僕も驚いていますよ。まさか世界の歌姫がこのレセプションに訪れるなんて……それにしても凄い騒ぎですね。でもそれも当然かも……男性と一緒にいるのですから。先程、婚約者が……とか騒いでいましたよね?」その言葉にイレーネの肩がピクリと動く。今やベアトリスとルシアンの周囲は物凄い人だかりで、2人の姿すら確認できない状態だった。それが何だかイレーネは寂しくて仕方なかった。「あ、そういえばイレーネさんは婚約者の方といらっしゃっていたのですよね? 待ち合わせしていたのではありませんか?」「いいえ……婚約者は……たった今いなくなりました」ケヴィンの質問にポツリと答える。「え? いなくなった? それはどういうことです?」「あ、あの。つ、つまりですね。私は彼の婚約者の代理として、出席しました。どうしてもお相手の女性が時間に間に合わないということで……。彼は正式に招待状をいただいておりまして、1人で入場しにくいと相談されました。そこで私が代理で一緒に会場入りしたのですが……」イレーネはそこで一度言葉を切る。「イレーネさん……?」(どうしたのだろう? こんなに寂しげな表情のイレーネさんは初めてだ……)「今、その必要は無くなりました。本当の婚約者がいらっしゃったようなので……ということで、私は帰ることにします」「え? 帰るのですか?」その言葉に驚くケヴィン。「はい。私はもう……必要ありませんので」「ならご自宅まで送りますよ。あの自宅でよろしいのですよね?」ケヴィンはイレーネが心配でならなかった。「え、ええ……」頷きかけ、イレーネは気付いた。(そうだわ……あの家に置かれた写真はベアトリス様だった。つまり、あの家の本来の持ち主はベアトリス様……。リカルド様と結んだ契約は私が1年間ルシアン様
「ま、まさか……ベアトリス? 君なのか!?」ルシアンの顔に驚きの表情が浮かぶ。「ええ、そうよ。2年ぶりね……会いたかったわ。本当に」それは本心からの言葉だった。だが、ルシアンの顔は曇る。「今更……何故俺の前に現れたんだ? 2年も経って……あんな手紙だけで行き先も告げずにいなくなったのに?」「仕方なかったのよ。あの時は色々あったから……だけど、その態度は何? こっちはどれほどあなたを思っていたのか知りもしないくせに。私を責めて、挙げ句にさっき一緒にいた女性は誰なのよ!」自分の立場も忘れて、ヒステリックな声をあげるベアトリス。「何だって? 彼女を見たのか?」ルシアンは眉を潜めた。「ええ、見たわ。とってもチャーミングな女性だったわね? 笑顔がとても素敵だったわ……彼女の悲しい顔が見たくないなら、場所を変えましょう。もしこの場に彼女が戻ってきたら、私何を言い出すか分からないわよ?」「……脅迫するつもりか?」その言葉に、ベアトリスの美しい顔が歪む。「聞き捨てならない言葉ね? かつては、あんなに愛し合った恋人同士だったというのに。何なら彼女に教えてあげましょうか? 私達がこれまでどんな風に愛し合ってきたか……」「やめてくれ!」ルシアンは声を荒げた。「……分かった、場所を移動しよう……」「ええ、懸命な判断ね。それじゃ別の場所へ行きましょう?」ベアトリスは美しい笑みを浮かべると、背を向けて歩き始めた。「イレーネ……」ルシアンはポツリと呟き、イレーネがいる方向を振り返った。(すまない、イレーネ。だが……どうしても君を傷つけたくは無いんだ……)ルシアンは覚悟を決めて、ベアトリスの後をついて行くことにした。ときに激しい情熱をぶつけてくるベアトリス。このままイレーネと鉢合わせすれば、気の強いベアトリスが何をしでかすか分からない。(昔は、彼女のそういう気の強いところが好きだったが……)けれど、今のルシアンはイレーネと過ごす時間が何よりも大切になっていた。明るく天真爛漫な彼女。それでも時折、自分だけに垣間見せる弱さ。そんなイレーネを守ってやりたい。彼女を心の底から笑える様にさせてあげたい。それだけ大きな存在になっていたのだ。(すまない、イレーネ。ベアトリスときっちり話をつけたら、必ず迎えに行くから……どうか、待っていてくれ……!)け
約40分前のこと――顔にヴェールをかぶせ、イブニングドレス姿のベアトリスがレセプション会場に入場した。「ベアトリス、君は今や世界的に有名な歌姫なんだ。時間になるまではヴェールを取らない方がいい」一緒に会場入りしたカインが耳打ちしてきた。「ええ。大丈夫、心得ているわ」ベアトリスは周囲を見渡しながら返事をする。「一体さっきから何を捜しているんだ?」「別に、何でも無いわ」そっけなく返事をするベアトリスにカインは肩をすくめる。「やれやれ、相変わらずそっけない態度だな。もっともそういうところもいいけどな」「妙な言い方をしないでくれる? 言っておくけど、私とあなたは団員としての仲間。それだけの関係なのだから」ベアトリスが周囲を見渡しているのには、ある理由があった。本当は、このレセプションに参加するつもりはベアトリスには無かった。だが、貴族も参加するという話を耳にし、急遽出席することにしたのだ。(今夜のレセプションは周辺貴族は全て参加しているはず……絶対にルシアンは何処かにいるはずよ……!)ルシアンを捜すには、隣にいるカインが邪魔だった。そこでベアトリスは声をかけた。「ねぇ、カイン」「どうしたんだ?」「私、喉が乾いてしまったわ。あのボーイから何か持ってきてもらえないかしら?」「分かった。ここで待っていてくれ」「ええ」頷くと、カインは足早に飲み物を取りに向かった。「行ったわね……ルシアンを捜さなくちゃ」ベアトリスは早速ルシアンを捜しに向かった――「あ……あれは……ルシアンだわ!」捜索を初めて、約10分後。ベアトリスは人混みの中、ついにルシアンを発見した。「ルシアン……」懐かしさが込み上げて近づこうとした矢先、ベアトリスの表情が険しくなる。(だ、誰なの……!? 隣にいる女性は……!)ルシアンの隣には彼女の知らない女性が立っていた。金色の美しい髪に、人目を引く美貌。品の良い青のドレスがより一層女性の美しさを際立たせていた。彼女は笑顔でルシアンを見つめ、彼も優しい眼差しで女性を見つめている。それは誰が見ても恋人同士に思える姿だった。「あ、あんな表情を……私以外の女性に向けるなんて……!」途端にベアトリスの心に嫉妬の炎が燃える。(毎日厳しいレッスンの中でも、この2年……私は一度も貴方のことを忘れたことなど無かったのに
馬車が到着したのは、デリアの町の中心部にある市民ホールだった。真っ白な石造りの大ホールを初めて目にしたイレーネは目を丸くした。「まぁ……なんて美しい建物なのでしょう。しかもあんなに大勢の人々が集まってくるなんて」開け放たれた大扉に、正装した大勢の人々が吸い込まれるように入場していく姿は圧巻だった。「確かに、これはすごいな。貴族に政治家、会社経営者から著名人まで集まるレセプションだからかもしれない……イレーネ。はぐれないように俺の腕に掴まるんだ」ルシアンが左腕を差し出してきた。「はい、ルシアン様」2人は腕を組むと、会場へと向かった。 「……ルシアン・マイスター伯爵様でいらっしゃいますね」招待状を確認する男性にルシアンは頷く。「そうです。そしてこちらが連れのイレーネ・シエラ嬢です」ルシアンから受付の人物にはお辞儀だけすれば良いと言われていたイレーネは笑みを浮かべると、軽くお辞儀をした。「はい、確かに確認致しました。それではどう中へお入りください」「ありがとう、それでは行こうか? イレーネ」「はい、ルシアン様」そして2人は腕を組んだまま、レセプションが行われる会場へ入って行った。 「まぁ……! 本当になんて大勢の人たちが集まっているのでしょう!」今まで社交界とは無縁の世界で生きてきたイレーネには目に映るもの、何もかもが新鮮だった。「イレーネ、はしゃぎたくなる気持ちも分かるが、ここは自制してくれよ? 何しろこれから大事な発表をするのだからな」ルシアンがイレーネに耳打ちする。「はい、ルシアン様。あの……私、緊張して喉が乾いておりますので、あのボーイさんから飲み物を頂いてきても宜しいでしょうか?」イレーネの視線の先には飲み物が乗ったトレーを手にするボーイがいる。「分かった。一緒に行きたいところだが、実はこの場所で取引先の社長と待ち合わせをしている。悪いが、1人で取りに行ってもらえるか? ここで待つから」「はい、では行って参りますね」早速、イレーネは飲み物を取りにボーイの元へ向かった。「すみません、飲み物をいただけますか?」「ええ。勿論です。どちらの飲み物にいたしますか? こちらはシャンパンで、こちらはワインになります」 ボーイは笑顔でイレーネに飲み物を見せる。「そうですね……ではシャンペンをお願い致します」「はい、
ルシアンが取引を行っている大企業が開催するレセプションの日がとうとうやってきた。タキシード姿に身を包んだルシアンはエントランスの前でリカルドと一緒にイレーネが現れるのを待っていた。「ルシアン様、いよいよ今夜ですね。初めて公の場にイレーネさんと参加して婚約と結婚。それに正式な次期当主になられたことを発表される日ですね」「ああ、そうだな……発表することが盛り沢山で緊張しているよ」「大丈夫です、いつものように堂々と振る舞っておられればよいのですから」そのとき――「どうもお待たせいたしました、ルシアン様」背後から声をかけられ、ルシアンとリカルドが同時に振り返る。すると、濃紺のイブニングドレスに、金の髪を結い上げたイレーネがメイド長を伴って立っていた。その姿はとても美しく、ルシアンは思わず見とれてしまった。「イレーネ……」「イレーネさん! 驚きました! なんて美しい姿なのでしょう!」真っ先にリカルドが嬉しそうに声を上げ、ルシアンの声はかき消される。「ありがとうございます。このようなパーティードレスを着るのは初めてですので、何だか慣れなくて……おかしくはありませんか?」「そんなことは……」「いいえ! そのようなことはありません! まるでこの世に降りてきた女神様のような美しさです。このリカルドが保証致します!」またしても興奮気味のリカルドの言葉でルシアンの声は届かない。(リカルド! お前って奴は……!)思わず苛立ち紛れにリカルドを睨みつけるも、当の本人は気付くはずもない。「はい、本当にイレーネ様はお美しくていらっしゃいます。こちらもお手伝いのしがいがありました」メイド長はニコニコしながらイレーネを褒め称える。「ありがとうございます」その言葉に笑顔で答えるイレーネ。「よし、それでは外に馬車を待たせてある。……行こうか?」「はい、ルシアン様」その言葉にリカルドが扉を開けると、もう目の前には馬車が待機している。2人が馬車に乗り込むと、リカルドが扉を閉めて声をかけてきた。「行ってらっしゃいませ、ルシアン様。イレーネさん」「はい」「行ってくる」こうして2人を乗せた馬車は、レセプション会場へ向かって走り始めた。「そう言えば私、ルシアン様との夜のお務めなんて初めての経験ですわ。何だか今から緊張して、ドキドキしてきました」イレーネ
「こちらの女性がルシアンの大切な女性か?」イレーネとルシアンが工場の中へ入ると、ツナギ服姿の青年が出迎えてくれた。背後には車の部品が並べられ、大勢の人々が働いていた。「え?」その言葉にイレーネは驚き、ルシアンを見上げる。しかし、ルシアンはイレーネに視線を合わせず咳払いした。「ゴホン! そ、それでもう彼女の車の整備は出来ているのだろうな?」「もちろんだよ。どうぞこちらへ」「ああ、分かった。行こう、イレーネ」「はい、ルシアン様」青年の後に続き、イレーネとルシアンもその後に続いた。「どうぞ、こちらですよ」案内された場所には1台の車が止められていた。何処か馬車の作りににた赤い車体はピカピカに光り輝いており、イレーネは目を輝かせた。「まぁ……もしかしてこの車が?」イレーネは背後に立つルシアンを振り返った。「そう、これがイレーネの為の新車だ。やはり、女性だから赤い車体が良いだろうと思って塗装してもらったんだ」「このフードを上げれば。雨風をしのげますし、椅子は高級馬車と同じ素材を使っていますので座り心地もいいですよ」ツナギ姿の男性が説明する。「ルシアン様の車とはまた違ったデザインの車ですね。あの車も素敵でしたが、このデザインも気に入りました」イレーネは感動しながら車体にそっと触れた。「まだまだ女性で運転する方は殆どいらっしゃいませんが、このタイプは馬車にデザインが似ていますからね。お客様にお似合いだと思います」「あの、早速ですが乗り方を教えてください!」「「え!? もう!?」」ルシアンと青年が同時に驚きの声をあげた――**** それから約2時間――「凄いな……」「確かに、凄いよ。彼女は」男2人はイレーネがコース内を巧みなハンドルさばきで車を走らせる様を呆然と立ち尽くしてみていた。「ルシアン、どうやら彼女は車の運転の才能が君よりあるようだな?」青年がからかうようにルシアンを見る。「あ、ああ……そのようだ、な……」「だけど、本当に愛らしい女性だな。お前が大切に思っていることが良くわかった」「え? な、何を言ってるんだ?」思わず言葉につまるルシアン。「ごまかすなよ。お前が彼女に惚れていることは、もうみえみえだ。女性が運転しても見栄えがおかしくないようなデザインにしてほしいとか、雨風をしのげる仕様にして欲しいとか色々
10時――イレーネは言われた通り、丈の短めのドレスに着替えてエントランスにやってきた。「来たか、イレーネ」すると既にスーツ姿に帽子を被ったルシアンが待っていた。「まぁ、ルシアン様。もういらしていたのですか? お待たせして申し訳ございません」「いや、女性を待たせるわけにはいかないからな。気にしないでくれ。それでは行こうか?」早速、扉を開けて外に出るとイレーネは声を上げた。「まぁ! これは……」普段なら馬車が停まっているはずだが、今目の前にあるのは車だった。「イレーネ、今日は馬車は使わない。車で出かけよう」「車で行くなんて凄いですね」「そうだろう? では今扉を開けよう」ルシアンは助手席の扉を開けるとイレーネに声をかけた。「おいで。イレーネ」「はい」イレーネが助手席に座るのを見届けると、ルシアンは扉を閉めて自分は運転席に座った。「私、車でお出かけするの初めてですわ」「あ、ああ。そうだろうな」これには理由があった。ルシアンは自分の運転に自信が持てるまでは1人で運転しようと決めていたからだ。しかし、気難しいルシアンはその事実を告げることが出来ない。「よし、それでは出発しよう」「はい、ルシアン様」そしてルシアンはアクセルを踏んだ――****「まぁ! 本当に車は早いのですね? 馬車よりもずっと早いですわ。おまけに少しも揺れないし」車の窓から外を眺めながら、イレーネはすっかり興奮していた。「揺れないのは当然だ。車のタイヤはゴムで出来ているからな。それに動力はガソリンだから、馬のように疲弊することもない。きっと今に人の交通手段は馬車ではなく、車に移行していくだろう」「そうですわね……ルシアン様がそのように仰るのであれば、きっとそうなりまね」得意げに語るルシアンの横顔をイレーネは見つめながら話を聞いている。その後も2人は車について、色々話をしながらルシアンは町の郊外へ向かった。****「ここが目的地ですか?」やってきた場所は町の郊外だった。周囲はまるで広大な畑の如く芝生が広がり、舗装された道が縦横に走っている。更に眼前には工場のような大きな建物まであった。「ルシアン様。とても美しい場所ですが……ここは一体何処ですか?」「ここは自動車を販売している工場だ。それにここは車の運転を練習するコースまである。実はここで俺も
翌朝――イレーネとルシアンはいつものように向かい合わせで食事をしていた。「イレーネ、今日は1日仕事の休みを取った。10時になったら外出するからエントランスの前で待っていてくれ」「はい、ルシアン様。お出かけするのですね? フフ。楽しみです」楽しそうに笑うイレーネにルシアンも笑顔で頷く。「ああ、楽しみにしていてくれ」ルシアンは以前から、今日の為にサプライズを考えていたのだ。そして直前まで内容は伏せておきたかった。なので、あれこれ内容を聞いてこないイレーネを好ましく思っていた。(イレーネは、やはり普通の女性とは違う奥ゆかしいところがある。そういうところがいいな)思わず、じっとイレーネを見つめるルシアン。「ルシアン様? どうかされましたか?」「い、いや。何でもない。と、ところでイレーネ」「はい、何でしょう」「出かける時は、着替えてきてくれ。そうだな……スカート丈はあまり長くないほうがいい。できれば足さばきの良いドレスがいいだろう」「はい、分かりましたわ。何か楽しいことをなさるおつもりなのですね?」「そうだな。きっと楽しいだろう」ルシアンは今からイレーネの驚く様子を目に浮かべ……頷いた。****「リカルド、今日は俺の代わりにこの書斎で電話番をしていてもらうからな」書斎でネクタイをしめながら、ルシアンはリカルドに命じる。「はい。分かりました。ただ何度も申し上げておりますが、私は確かにルシアン様の執事ではあります。あくまで身の回りのお世話をするのが仕事ですよ? さすがに仕事関係の電話番まで私にさせるのは如何なものでしょう!?」最後の方は悲鳴じみた声をあげる。「仕方ないだろう? この屋敷にはお前の他に俺の仕事を手伝える者はいないのだから。どうだ? このネクタイ、おかしくないか?」「……少し、歪んでおりますね」リカルドはルシアンのネクタイを手際良く直す。「ありがとう、それではリカルド。電話番を頼んだぞ」「ですから! 今回は言われた通り電話番を致しますが、どうぞルシアン様。いい加減に秘書を雇ってください! これでは私の仕事が増える一方ですから」「しかし、秘書と言われてもな……中々これだと言う人物がいない」「職業斡旋所は利用されているのですよね? 望みが高すぎるのではありませんか?」「別にそんなつもりはないがな」「だったら、